明治図書出版様から写真の掲載依頼がありました
長い間ブログを書いていると面白いことがあるもので、1月の頭に明治図書出版様から小学生が使う教材に写真を掲載したいという依頼を頂きました。
「おおお!遂に写真家デビューか!?」と期待しつつ、明治図書出版の方と連絡をやり取りさせていただくと、八丈島の船が停泊している底土港の写真が中々手に見つからず、ちょうど見つけた上の写真を使いたいということでした。
「写真が上手かったからじゃないのね・・・」と少々ガッカリしつつも、小学生の教育に自分の写真が役に立つのならと快諾し、勝手なお願いで恐縮しつつも、本が出来上がったら一冊献本をお願いしました。
夏の暑さを吹き飛ばす写真と動画色々
2009年7月18日~19日の二日間で訪れた八丈島旅行のまとめ
海の日の三連休のうち2日間を利用して伊豆七島の最南端の島、八丈島を旅行しました。八丈島に滞在したのは1日、本当に24時間だけと短い間でしたが、色々なところに行ったし、島の食べ物も食べてそれなりに充実した旅行となりました。
昨年の同じ時期に三宅島を旅行しましたが、三宅島の風景と似た風景が八丈島にもありました。元々が火山で形成された島であり、また八丈島も幾度か噴火を繰り返した歴史がありますので、似ていて当然とも言えるかもしれません。
ちなみに今回の八丈島旅行でエントリーに書きあげたスポットをGoogleMapでまとめました。地図を眺めながらエントリーを読むと位置関係が分りやすいです。
いよいよお別れ!かめりあ丸に乗船し八丈島を発つ 八丈島旅行(21/21)
底土漁港周辺を散策 八丈島旅行(20/21)
底土港近くの人間魚雷「回天(かいてん)」二号壕(底土基地)を探索! 八丈島旅行(19/21)
八丈島を出発する船の時刻までまだ後1時間弱あるということで、時間を持て余していた我々は、底土港から徒歩圏内にある人間魚雷「回天」があった基地跡地に向かってみました。
「回天」というとゴルゴ13も劇中で使った(知るわけないか)という程に有名ですが、人間が一人乗り込み操縦して敵船を撃墜する特攻兵器。文字通り人間魚雷です。
人間魚雷「回天」二号壕跡(底土基地)
昭和ニ〇年の春、本土決戦に備え特攻兵器の人間魚雷「回天」が、沖縄・九州・四国・近畿の各地方と、関東では唯一、この八丈島に第二回天隊の「回天」八基が配備された。
その内の四基がこの底土基地で、後の四基は末吉地域の石積基地にあり、回天隊員は、それぞれ格納壕の中で進突時期が来るのを待ち続けていた。
回天隊員の任務は、八丈島へ侵攻するとき先ず艦砲射撃を加えてくる敵艦隊の撃滅であった。「回天」は、直径一m、長さ十四・七五m、最高速力三〇ノット、重量八・三トンで、車輪付きの架台に載って格納壕の中で待機し、進発する時はレールの上を動いて斜路から海に入り、機械を発動して敵艦に向かう。
しかしながら、その進発の機会は遂に訪れず、終戦となってのち、武装解除のため来島した米国艦隊は、「回天」全部の爆破を指示したので、回天隊員は自らの手により、各「回天」の額役1・五五トンを装填した頭部を切り離して海中に投棄した上、胴体を格納壕に収めて爆破した。
底土の「回天」格納壕は長さ三七m、幅三m、高さ三・五mの大きさで、二箇所の壕に「回天」を二基ずつ収納した。
陸側の一号壕はのちに崩落したが、海側の二号壕はこのように現在も姿をとどめている。
平成十七年一〇月一日
(元八丈島回天隊長海軍大尉 小灘 利春文)
八丈町教育委員会
底土港の底土港客船待合所 八丈島旅行(18/21)
八丈島のカフェ「ベル」で朝食をとる 八丈島旅行(17/21)
八丈島のお土産屋「民芸あき」に立ち寄る 八丈島旅行(16/21)
登龍峠の登龍園地から八丈富士と八丈小島を展望 八丈島旅行(15/21)
一夜明けた最終日の朝。宿から車を走らせて三原山麓の険しい山道の中腹にある景勝地「登龍峠」の「登龍園地」に到着しました。ちなみに「登龍」は「ノボリリュウ」ではなく「ノボリュウ」と読みます。
登龍峠(のぼりゅうとうげ)
八丈島一周の都道(とどう)の内、末吉(すえよし)と三根(みつね)の間を登龍道路(のぼりゅうどうろ)と呼び、その最後部辺が登龍峠で、晴天には遠く三宅島や御蔵島が望まれ、眼前には八丈富士と八丈小島、眼下には底土港、神湊港(かみなこう)、空港や坂下市街地が一望のものに眺められる八丈島随一の展望台である。昔は三根から末吉に行く時は、天に登る龍のようなつずら折りの急な坂を越えたので、登龍峠と呼ぶようになったという。