2009.01.24(Sat)
谷中霊園の第15代将軍「徳川慶喜」の墓を訪れる

谷中霊園近くの「agenda」を出て、谷中霊園を貫く中央園路を歩いていると「徳川慶喜の墓」という看板を発見しました。特に当てがあるわけでもないので、折角なので行ってみることに。
中央園路から徳川慶喜公の墓を示す標識を頼りに墓地の中を進み、5分ほど歩いてようやく到着。意外と遠かったです。徳川慶喜公の墓は周囲を塀で囲まれていますが、その塀が脆くなっているために補修工事中でした。
上の写真の右側に写っているトラックとブルーシート等の資材と工事用のものです。丁度引き上げるタイミングだったのか、工事関係者が機材をトラックに載せているところでした。
徳川慶喜というと第15代将軍で大政奉還をして最後の将軍となった人物。まぁ日本史があまり好きではなかったのでこの程度の知識しか思い出せないです。詳しくはWikipediaを読んでください。


徳川慶喜公の墓は四角い塀の1辺が鉄柵で閉ざされており、鉄柵には徳川家を示す「葵の紋」と、徳川慶喜の略記を綴ったパネルが設置されていました。パネルの方は長年の風雨で擦れ部分的に判然としませんが、何とか転記すると以下の通りです。
東京都指定史跡
徳川慶喜(よしのぶ) 墓
所在地 台東区谷中七―ニ 寛永寺墓地内
指定 昭和四四年三月ニ七日
徳川慶喜(一八三七~一九一三)は、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第七子で、初め一橋徳川家を継ぎ、後継職として将軍家茂(いえもち)を補佐した。慶応ニ年(一八六六)第十五代将軍職を継いだが、翌年、大政を奉還、慶応四年(一八六八)正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明渡した。駿府に隠棲し、大正ニ年(一九一三)一一月ニニ日に没した。
■■■(判読不能)六〇〇平方メートル余の墓域の中央からやや南西寄りに茸石円墳状の墳墓がある。
平成ニ年三月三一日建設
東京都教育委員会

鉄柵の隙間から写した「徳川慶喜」の墓です。写真中央の左側の円墳がそれです。徳川家康が日光東照宮に奉られているのとは対照的に質素なお墓です。
何故質素なのかはWikipediaから引用すると以下の通りです。
朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺徳川家墓地でも寛永寺徳川家墓地でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。これは孝明天皇の陵墓が質素であることに感動したためである(『川慶喜公伝』)。
ちなみにこの時ご老人3方と一緒だったのですが、その内の一人から聞いた話では、徳川慶喜公は中々の趣味人で自転車に乗ったり、写真に興したりしたそうです。Wikipediaにも同じ記述がありますね。
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