鹿児島の名勝「仙巌園」(磯庭園)を観光する:1/2(鹿児島旅行 4/26)
「豚とろ」 姶良店を後にした我々は、鹿児島湾に浮かぶ桜島を左手に眺めながら国道10号線を南下して、辿り着いたのが名勝「仙巌園(せんがんえん)」です。別名「磯庭園」とも言います。
鹿児島と言えば薩摩藩。薩摩藩と言えば藩主島津家。「仙巌園」は18代島津光久が別邸として造成し、桜島を築山に、鹿児島湾(錦江湾)を池に見立てた壮大な借景庭園で、国指定の名勝になっています。
「仙巌園」の入口と地図。入口は駐車場からやや離れています。「尚古集成館本館」や「尚古集成館別館」に入るにもチケットが必要ですので、車を止めたらまずはチケットを買いましょう。
地図を見るとかなり広大な庭園であることが分かります。運悪く降り続ける雨の中でこれだけの広さを回るのは大変そう。
最初に入ったのが国指定重要文化財「尚古集成館本館(旧集積館機会工場)」です。
この建物には第27代島津斉彬(しまづなりあきら)が起こした様々な事業に関する展示物や資料が展示されています。
鉄砲やら大砲やら甲冑が展示してあって、日本史にはとんと縁が無い自分にもかなり楽しめました。日本史に興味がある人だったらもっと楽しめそうです。
展示してあったものの1つ。瓦みたいですが島津家の「丸十紋」が彫り浮かんでいます。ちなみに「尚古集成館本館」内は写真撮影禁止です。良い子のみんなは真似しないように。
続いては「尚古集成館別館」です。「尚古集成館別館」では雛人形が大量に展示されていましたが、自分は日本人形が苦手なので直ぐに退散。あの能面のような無表情な顔が苦手なんですよね。
子供の頃に首だけになった日本人形に追いかけられる夢を見てから一層苦手になりました。
入口に戻って、いよいよ広大且つ壮大な景色が待つ「仙巌園」に足を踏み入れます。
「仙巌園」に入ると出迎えてくれるのが、「薩摩藩百五十斤(150ポンド)鉄製砲」。もちろん実物ではなく復元したものですが、兎に角デカイ!です。横に添えられていた説明パネルから引用すると以下の通り。
薩摩藩百五十斤(ポンド)鉄製砲は後方に見える反射炉で鋳造されたと伝える最も大きな大砲です。巨大な砲身を支える砲架は木製で、最前部を軸にして回転でき、大砲の向きを変える「砲架下部」と、発射時の衝撃を和らげるために砲架下部の上を滑る構造の「砲架上部」で構成されています。反射炉や鉄製砲は、幕末薩摩を舞台に島津斉彬が挑戦した、近代化への情熱を象徴しています。
「薩摩藩百五十斤(ポンド)鉄製砲」から右手に進むとお土産屋の「亀鶴荘」があります。「仙巌園」では、お土産屋も回りの景観を損なわないように建物も古めかしく往時のような外観になっているのが良いですね。
ここでやっとライターを購入しました。鹿児島空港では売っていなかったので、久しぶりに火をゲットです。ちなみに「亀鶴荘」の直ぐ横に喫煙所があります。
「亀鶴荘」の斜向かいに、桜島大根が丁度花を咲かせていました。実物を生まれて初めて見ましたが、やっぱり桜島で生育するのが命名の由来なんですかね。ちなみにギネス認定されている世界で最も巨大な大根だそうです。
「亀鶴荘」を右手に更に奥に進み、正門の手前辺りに「仙巌園」の解説がありました。
国指定名勝 仙巌園
仙巌園(せんがんえん)は万治元年(一六五八)十九代島津光久(みつひさ)が別邸として築いたもので、その景観が中国(江西省)竜虎山山麓の仙巌園に似ているところから名付けられました。また寛文十二年(一六七二)、手以南に一亭を構えたところ、落成の日に鶴が舞い降りたので「喜鶴亭」(きかくてい)とも呼ばれるようになりました。
照葉樹林に覆われた磯山を背に、錦江湾や桜島を庭の景観に取り入れた借景の偉大さは、日本一であるといわれています。また、自然の美しさを最大限に生かした日本庭園を基本としながらも、園内には琉球国王から贈られた「望獄楼」(ぼうがくろう)をはじめ、「江南竹林」(こうなんちくりん)、「曲水庭」(きょくすいのにわ)、「千尋巌」(せんじんがん)など、中国・琉球文化の影響が至る所に見られることも特色の一つです。特に曲水の庭は、作庭当時の姿をほぼそのまま今日に伝え、また我が国最大級のものです。
この辺りから「仙巌園」の奥の方を見ると、右手に見えるのが「正門」で、左手には写真には写っていませんが「島津家水天渕発電所記念碑」があります。
こちらが中央に大きく「丸十紋」の島津家家紋が彫られた「島津家水天渕発電所記念碑」です。「正門」の左斜め前に位置します。
島津家水天渕発電所(しまづけすいてんぶちはつでんしょ)記念碑
水天渕発電所は明治四十年(一九〇七)に、島津家が経営していた山ヶ野金山(やまがのきんざん)(横川町・薩摩町)に電力を供給するために姶良郡隼人(はやと)町に建てられた発電所です。
ヨーロッパ風の石造りの建物は当時としては珍しく、昭和五十八年まで使用されていました。その後、九州電力株式会社のご好意により、ここに記念碑として譲り受けたものです。
こちらが「正門」です。以下の解説によると島津家の家紋「丸十紋」と「五七桐紋」が施されているとのことでしたが、「丸十紋」は装飾瓦に、「五七桐紋」の方は屋根の下の妻(というのかな?)に施されていました。
「仙巌園正門」を解説した解説板がありました。これをテキストに起こすと以下の通り。
正門
明治四年(一八七一)に廃藩置県が行なわれ、翌年、薩摩藩最後の藩主に十九代島津忠義(しまづただよし)夫人達は、鶴丸城(つるまるじょう)から磯(いそ)に居住を移しました。明治二十一年には、忠義本人も鹿児島に移り、その後、明治二十八年(一八九五)に鹿児島の大工、大重伊三次(おおしげいさじ)に命じて建てさせたのがこの正門です。用材は裏山の樟を使い、島津家の家紋である丸十と五七の桐が彫りこまれています。
現存する、本門は昭和五十八~五十九年(一九八三~一九八四)に解体修理を行なったものです。
ちなみに「正門」は大河ドラマ「篤姫」のロケに使われ、薩摩藩邸江戸屋敷に見立てられたそうです。「正門」の左右には蔵のような建物がありました。当時はどのような用途に使われていたのでしょうか?気になるところです。
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